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先人たちの底力 津田梅子が結婚しなかった4つの理由とは?

NHK「先人たちの底力 知恵泉」で取り上げられた津田梅子。「あさが来た」でお馴染みの広岡浅子が女子初の大学を設立した、より前に女子の高等教育機関を設立しているのだ。明治の女傑にも負けていない津田梅子は、幼い頃アメリカ留学をし、やがて津田塾の前身となる女子英学塾を設立したのは有名な話。そんな彼女は生涯独身であった。もちろん当時はとても珍しいことであっただろう。今回はなぜ津田梅子が生涯結婚しなかったのか、その理由を探ってみたい。

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何といってもアメリカ帰り

津田梅子がアメリカで見たものは、女性も学び働いている姿であった。特に彼女がホームステイしたランマン夫妻、夫のチャールズ・ランマン氏はジョージタウン(ワシントンD.C.)で日本弁務官書記として働いていた。若い頃は新聞の編集者賭して働いていたし、また大きな賞を受賞するほどの画家でもあったことから、憶測に過ぎないが、リベラルな考えの持ち主であったのではないだろうか。そのような夫妻の元で11年間も過ごしてきたのだから、津田梅子にとって、チャールズ・ランマン氏が普通の男性像になったと想像できる。しかしそんなリベラルな男性が当時日本にいるはずがない。自分の父親が母親に対する扱いにさえ、違和感を覚えたくらいである。これでは津田梅子が日本人男性に惚れるわけがないし、結婚したいとも思わないだろう。

結婚しないという生き方の発見

アメリカで活躍する女性を見て、津田梅子は結婚だけが女性の幸せでもなければ、結婚しない女性の生き方もあるんだと「発見」したのではないだろうか。選択的に結婚しない生き方が存在するということを。そう、自分には結婚する、しないの選択があるということを知った津田梅子は、結局結婚しないという人生の選択をしたのだ。

今でさえ結婚しない女性の風当たりは強いのだから、当時はどれほどだったのかと想像する。津田梅子もアメリカに手紙で「日本女性の結婚適齢期は15歳」と記していたし、結婚の話をするなと愚痴をこぼしていたことから、その適齢期をとっくに過ぎた彼女への世間の目は相当厳しかったのだろうと思う。だからこの津田梅子という女性はよっぽど強い決心を持って独身を貫いたのか、よっぽど日本人男性が嫌だったのか。

家庭と仕事の両立はムリ

現在でさえ、この家庭と仕事の両立に悩む女性は多い。しかし当時の女性にとって、この二つが両立するとかそんな考えは無かったのではないだろうか。結婚して家庭を持ってもバリバリに外で働くという概念そのものが無かったのではと推測する。結婚か仕事かのどちらかで、あるいはそんな選択なんて元から無く、結婚したら家庭に入る、それ以外に考えたことも無かったのではないだろうか。津田梅子は学校をつくるという夢があった。家庭と仕事の両立なんて考えられなかった当時。結婚すれば夢から遠ざかるのは目に見えている。夢の実現のためには、津田梅子にとって家庭は邪魔なだけだったのかもしれない。

津田梅子は夢と結婚した

何も結婚相手は人間とする必要はない。生涯を共にするというのが結婚の一つの考えなら、津田梅子は学校をつくるという自分の夢と結婚したのだ。その夢のために全てを尽くしたのだから。結婚しなかったとか、生涯独身を貫いたとか、何となくマイナスな響きのする表現は止めて、そう、津田梅子は夢と結婚したのだ。この方がよっぽど聞こえがいいし、プラス思考で夢がある。

最後に

津田梅子は有名な女性で、メディアでも何度も取り上げられてきた。しかし時代によってその取り上げられ方も違ってきたのだろうと思う。その取り上げられ方は、きっとその時その時の女性の地位を反映しているのだろうと想像する。それにしても、津田梅子はナイチンゲールやヘレン・ケラーと会っていたなんて、凄い。

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