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信子さまが三笠宮東邸に侵入?皇族母子の確執は深かった

12年6月に逝去した“ヒゲの殿下”寛仁さまの娘、彬子さまと瑶子さまが暮らす、三笠宮東邸(旧寛仁親王邸)に7月、”侵入”騒動があったと、週刊朝日が報じています。

”侵入”したのは、彬子さまと瑶子さまの母親信子妃殿下で、三笠宮東邸の中から荷物を取り立ち去っていったとか。

どうやら原因は、よくある親子のドロドロ群像劇らしいのですが、皇室といえど、どこも一緒。

一体母親の信子さまと、娘の彬子さまと瑶子さまとの間に何があったのか、三笠宮東邸の画像と共に”侵入”騒動の裏に迫ってみます。

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皇族が”侵入”?

7月末、赤坂御用地にある三笠宮東邸(旧寛仁親王邸)にお住まいの彬子さまと瑶子さまが不在中、”侵入”騒動が起こりました。

こちらが三笠宮東邸の外観画像。

彬子さまと瑶子さまの母親である信子さまが三笠宮東邸へ訪れて、戸を開けるように言いますが、職員に断られてしまいます。

玄関の呼び鈴を鳴らしたり、通用口の呼び鈴を鳴らしたり、携帯電話で中に電話をかけたりと、ちょっと怖いです。しかし開けられないと断られ、次なる手段へ。

なんと信子さまは連れてきた鍵の専門業者に通用口の鍵を開けさせ、中に入ってしまったのです。そして3時間ほどで三笠宮東邸内の荷物をまとめ、出て行ったというのですから、このことを聞いた彬子さまはきっと驚きと共に呆然となさったとか。そして警察へ被害届も提出することを検討なさっているんだとか。

親子間で警察沙汰になるかもしれない、しかも普通の親子ではなく、皇族。尋常ではありません。

皇族親子のドロドロ劇

日本の後続って、イギリスなどの海外に比べれば、とっても慎ましやかで、スキャンダルとか、ましてや警察沙汰とは無縁のような気がしますよね。ですから信子さまと、彬子さまと瑶子さまの親子間の確執はとても異様に見えてしまいます。

寛仁親王一家のドロドロ愛憎劇を時系列でまとめました。

1980年11月
故寛仁さまと信子さまが8年越しの恋愛の末、ご結婚

1981年12月20日 
彬子さま誕生

1983年10月25日 
瑶子さま誕生
信子さま「自分は他の皇族から嫌がらせを受けている」と話す。
これが原因で寬仁親王家は他の皇族から孤立

1990年暮れ
寬仁さまに食道がんが見つり、甲斐甲斐しく介護する信子さま。
しかし結婚生活は破綻していた

2004年4月
信子さまが胃潰瘍と更年期障害を理由に軽井沢で療養生活
寬仁さまとの不和がクローズアップされる

2009年10月
病気療養という理由で、信子さまは旧宮内庁長官公邸でおひとりでの生活、以来一度も寬仁さまに会わなかった

2012年6月
寬仁さま死去
寬仁親王家の当主問題(寬仁さま → 彬子さまに継いでほしい、信子さま → 自分が当主)
当主が決まらず寬仁親王家廃止で、母娘は三笠宮家に合流

親子の確執が深まる

どれほど深い確執かというと、なんと彬子さまが信子さまを三笠宮家から追放する“クーデター”を計画しているという報道が一部出るほど。

信子さまの言葉を真に受けて、他の皇族と距離を置くようになった寛仁親王一家。しかし寛仁さまは信子さまの言動不審から、お酒に溺れていったとか。

昨年6月発売の「文藝春秋」で、親子の確執を赤裸々に語った彬子さま。今回の”侵入”騒動を見ると、親子の確執は和らぐどころか益々深くなっているようですね。

最後に

信子さまと、彬子さまに瑶子さま。いつかこの母娘に和解の日は来るのでしょうか。

信子さまの”侵入”に対し、本当に彬子さまが警察に被害届を出すことは、おそらく無いと思います。しかしそれくらいこの親子の間の溝は深まっているのですね。

皇族といえど、どこも一緒だなと思いました。

しかし信子さまが、彬子さまと瑶子さまの許可無く三笠宮東邸に入るのは、法的に見てどうなんでしょう。

以上、信子さまが三笠宮東邸に”侵入”?皇族親子の溝は深い

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